本間寄木美術館を造る

 私が寄木細工の美術館を造ろうと思い立ったのは五十四歳の時だった。それまで、観音開扉寄木洋風厨子の複製をはじめ、旅枕、寄木細工八寸二枚組盆(九州・柳川、立花家所蔵)、寄木重箱(工業デザイナー秋岡芳夫氏所蔵)、尺一寸角盆(個人所蔵)、北村透谷愛用の文箱(小田原文学館所蔵)などの名作、逸品の類を注文や仕事上の必要に迫られて複製をしてきた。先達の腕利きの職人たちが手がけた、これらの作品を複製してみて思うのは、寄木細工というものの奥の深さ、そして木の持つ魅力であった。
 洋風厨子で林さんとご縁のできたのはこの頃で、林さんから骨董市の話を聞いていた私は、ある日、家内を連れて東京・平和島の流通センターで開かれていた骨董市へ出かけた。広い会場を見て回ると、あるではないか。乱寄木をあしらった寄木箪笥だ。すぐ飛びつこうとしたが、家内が止めた。見ると隣の店に李朝箪笥があり、ほとんど同じ大きさでどちらも値段は二十四万円。そこで作戦を立てた。家内は李朝箪笥の店主と、私は寄木箪笥の店主と値段の交渉を始めた。骨董市では言い値で買うものではない、と聞かされていたからだ。もちろん本命は寄木箪笥だ。私は聞いた。「この模様はなんだ?」、「よくわからないがきれいだろ」という。「寄木を知らないな」と直感した。当時、(いまでもそういう傾向はあるが)商売人でも寄木を知っている人は少なかった。「いくらにしてくれる」「負けられないよ」、「そうか、俺はこっちだが、家内は向こうがいいと言ってる。女は怖いから向こうにするか」とこんなやりとりをすると、「仕方ない、負けるよ」と言った。初めての骨董市での買い物で「やった」という気分だった。十八万円だったと記憶している。
 さあ、そのひと抱えもある箪笥をどうするか、店の人は「大きいから送ってやるよ」と言うが、鬼の首をとったようにうれしくて「持っていくよ」と担いできた。東京駅構内の中央口は夕方で人通りはすさまじいほどだ。そこを大きな荷物を担いで通るのだから大変だ。その時はほかにも寄木重箱、盆、小箱を買い、家内はそれらを両手に提げて私の先を「すみません、すみません」と言って歩き、私は後ろからついて歩いた。家に着いて測ったら箪笥は間口六十センチ、奥行き三十五センチ、高さ五十二センチあった。
 その後、この市には足繁く通うようになり、家にいても落ち着かず、家内に「仕事が手につかないんでしょ、行ってきたら」と言われて飛び出していくことが何回もあった。
 収集していて面白い話はいろいろある。ある日のこと、骨董市へ行くと、大きな衝立があった。木象嵌である。しかも、片面に花が十二個、もう片面には菊の生花が象嵌されている。間違いなく私達寄木職人の先達の作品だ。とぼけて「これは何だ」と聞くと「絵ですよ。中国のものではないですか、神戸の異人館にあったものですよ」という。私は腹の中で「しめた」と思った。寄木職人の私は使っている木材といい、細かいところまで神経の行き届いた象嵌細工の腕の冴えといい、かなりの逸品と見た。ところが相手は木象嵌を知らないのだ。早速値段の交渉に入った。買うほうの私が「エッ」と驚く(高くない)値段を言った。心の中でにんまりしながら「買うよ」と言った。送ってもらい、到着した作品をしげしげと見た。高さ一六五センチ、幅は一八五センチあり二人でも持てない。扇面に寄せた中に一年十二ヵ月の花が象嵌されている。菊の方はそれを支える竹の先に虫が一匹止まるような形で象嵌されている。見事な作品だ。後日、同じ趣向の作品をもう一点入手したが、こちらには虫がなかった。これは同一人物の作で後から買った方を先に作り、先に求めた方は作った後に、作品を眺めているうちに、竹のあたりの空間が気になって虫を象嵌してみたのではないかというのが私の解釈だ。


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 © 本間 昇