「セーノっ」の掛け声で

 箱根・芦ノ湖に端を発し山々を縫うように流れる渓流早川と、登山鉄道にはさまれた山すそで私・本間昇は七十二年の歳月を送ってきた。住むあたり、箱根の湯本地区は川の流れも緩やかになり、登山電車のゴトーン、ゴトーンという音はのどかという言葉が当てはまる。のんびりした風土とは反対に、せっかちな性分はこの年まで変わらず、寄木細工ひと筋に生きてきた。
 寄木細工は色の違った木片を色々な形に寄せて組み合わせ、それを削ったもの(ヅク*)を小箱などに張って仕上げる。木工職人は鉋(かんな)が命だが、寄木の職人もそこは同じだ。鉋といえば刃が大事、その切れ味で腕の良し悪しも決まる。さて、ここからだが、大工さんをはじめ、木の職人が鉋で仕上げる時、いかに削った面を滑らかにするかが腕の見せどころ。鉋クズ(このクズという言葉を使いたくない、その訳はおいおい説明します)が透けて見えるくらいにまで仕上げる。ところが、われわれ寄木の職人は時によって、厚く削らなければならない場面が出てくる。薄く削るのが腕なら厚く削るのも腕という、まずはそのあたりから…。
 二十年前の冬のこと。箱根物産連合会の露木保専務理事から電話があった。
 「(通産省)伝産室が〇・四五ミリのヅクが鉋で削れるかという。
だれか削って見せてやってくれ」
 ふだん削っているヅクは〇・一ミリ前後。もっと厚く削っていた昔は鋸(のこぎり)で挽(ひ)き割ったさらに厚いものまであった。その工程を再現して見せろということだ。寄木の部品となる種板は、鉛筆を接着剤で固定して束ねたような形。その断面を鉋でスライスするのだが、異種の木を寄せているから、接着してあるといっても一枚の状態に削り出すのは年季がいる。寄木細工の業界は鉋で削ったヅクを張る技法を長年努力して築いてきた。その特長を生かして「伝産法」の指定を受けようとしているのだから失敗は許されない。
 これはえらいことになった。会合を開いて地元の業界に相談したが、誰も手を挙げない。結局、露木氏は「本間さん、お前が削ってみせてやってくれ」と言う。私には職人としての意地も矜持もあり、面子を考えないではない。それにしても、しくじった時のことを考えると責任は重い。巡り合わせとはいえ悩みは尽きなかった。
 二月の何日だったか大雪の降った日、私の工房にやってきたのは、伝産室担当官の岸宗夫、福迫眞一両氏、通産局は岩元リエ子氏、県は瀬戸良雄氏、伝統的工芸品指定部会は大西利長先生(東京芸大教授)の面々。畑宿の館野実さんが心配して、大鉋を持って雪の中を下って来てくれたが、私は父が使っていた刃渡り四寸五分(約一四センチ)の大鉋を持っていたので、それを使うことにした。今まで〇・四五ミリの厚みのヅクは削ったことはないが、以前、寄木の材料を作る時に父が大鉋を持ち、私が鉋の頭を棒で押してそのくらいの厚みを削った経験があった。今度は私が鉋を持ち、親父の最後の弟子・赤沢薫に鉋の頭を棒で押させる段取りを調えたものの、幅が十センチ、長さ三十センチの寄木を「コク」*のだから真剣だ。
 お歴々が見守る中、私は覚悟を決めて「セーノっ」と掛け声をかけてまず三センチほど鉋を食い込ませ、それから一気に削った。シューっという小気味のいい音とともにヅクが鉋から吐き出された。ヅクを見るまでもなく、乾いた滑らかな音でうまくいったとわかった。福迫氏がすかさず持参していたノギスで、丸まって二重になった部分を挟み「まさしく伝統工芸の掛け声ですね、二枚だから〇・九ミリあります、〇・四五ミリのヅクは鉋で削れますね」と言った。その間に削った種板を平鉋で軽く削った。二枚目の準備だ。大鉋で削った面は厚く削ったので表面が荒れている。そのまま削ったのではヅクに穴が開く恐れがある。見ていた福迫氏は「なんで削ったんですか」と。「良いものを削るには表面を滑らかにしておかないと。もう一枚削りますか」と聞くと、「いや、結構です」と言われた。後で考えると、「もし二枚目で失敗したら」という武士の情けだったのだろうか。その時はそこまで気が回るどころじゃあなかった。
 こうして寄木細工は鉋で削るヅクが認められた。その後のヒアリングで「〇・四五ミリの攻防戦」をやった。製品にそんな厚いヅクを張ったのでは、コスト高になって商売にならないし、桐(きり)箪笥のように削り直しをすることはないから、実際にその厚みは必要ない、という説明が納得されて、結局、〇・三ミリ(告示文では〇・二五ミリ以上)に落ち着いた。雪の日だったが気が張っていたせいか寒さのことなど覚えていない、長い半日だった。

*ヅク 寄木の元になる木を寄せたものを種板と言い、それを鉋で薄く削った経木状のものをヅクと呼び、箱などの表面に張る。業界用語である。
*コク 寄木の元になる種板を削ることを職人は削るとは言わずに「コク」と言った。


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 © 本間 昇