「七十歳で死ぬ」に怒る

 のっけから怒った話で恐縮だが、この原稿を書いている平成十六年四月、私は満七十二歳だ。私が怒ったには訳がある。
 箱根寄木細工が伝産法によって指定を受けて一、二年たつと、このことがあちこちに伝わったとみえ、小、中学校から工場見学や、私に出張して体験学習をやってくれとの依頼が来るようになった。そんなことが続いた平成十四(二〇〇二)年一月下旬のこと、ある中学校の教師から電話があった。「中学生四人が本間さんの職人としての苦労話を聞きたいというので、会って話をしてやってほしい」とのことだった。「私でよかったら」とお受けしたのだが、その後、連絡もなく日々の仕事に追われて忘れかけていた。二月末になって、その中学の一年生担任の女性教師が「生き方学習」という依頼状を持って見えた。それにはワークシートという用紙に生徒からの質問項目が何項目かあり、目を通すと最後に「未来設計についてどのように感じられましたか。私たち中学生へ生き方のアドバイスをお願いします」とあった。これにはびっくりして思わずその教師の顔を見て即座に「生き方のアドバイス、これは先生のする仕事ではないですか。私には人生の指導はできませんのでお断りします」と言った。女性教師は「いまになって変更できないので」と他の書類も出し、封筒ごと置いて帰ってしまった。
 私は今でも朝は八時から夕方は五時三十分まで、外出以外は働いている。仕事が終わって、夕食後、置いて行った封筒の中身を見た。生徒が書いた「私の未来設計」なるものを見てまた驚いた。一人は「七十歳、死亡」、もう一人は「七十五歳、死亡」と人生の最期まで予測して書いてあるではないか。俺はいまでも日々寄木細工作りに努力して生きているつもりなのに、七十で死ぬ、とはなんということだ、ましてやいまの中学生の若さで、と思うと無性に腹が立ってきた。翌日、「今の若さで死を考えているような生徒に話をする時間もなく、また何を話すのか考えも浮かばない。それに私の話し方次第で将来ある若者の人生に影響を与えるかと思うとお受けできません」と手紙を書いてそれらを学校へ返送した。三月十二日になると、今度はその学校から男性教師が突然来た。先の女性教師といい、こちらの都合も聞かずになにを考えているのだろうと不快だった。教師いわく「学校では考え過ぎに反省しています。明日は本間さんの考え方で生徒に話をしてやってほしい」と丁重な詫びだった。今度はなにも言わずにお受けした。
 翌日、その教師は生徒の来る前に挨拶に見え、約束の十時少し前、男女二人ずつ四人の生徒が緊張してやってきた。硬くなっているのをほぐそうと、若い頃は山歩きをした事や、消防団に入って火事や台風の時に出動した話などをした。そこは若者だ、すぐに乗ってきて気楽に話すようになった。質問の用紙は手元に持っていたが、あえて生徒から言葉に出してもらった。最後の「死ぬ」まで聞いてから、「今から死ぬことなど考えることはない。俺は今でも毎日が楽しく、元気で物作りができることに感謝している」と言い、クラーク博士の言葉「少年よ大志を抱け」や「少にして学べば 則ち壮にして為すこと有り 壮にして学べば 則ち老いて衰えず 老いて学べば 則ち死して朽ちず」(言志四録、岩村藩の儒者 佐藤一斎)を引用して励ました。
 後日、学校長から丁寧な礼状が届き、四人の生徒からも「『少にして学べば…』の言葉が心に残りました」「三年もかけて作製した作品を見せていただき、すごく感動しました。最後まであきらめなければ、こんなにすごい物が作れるのだと感じました」などという手紙をもらった。それぞれが人生を見つめ直したようで、私自身、これでようやく肩の荷を下ろしたような気分になれた。
 いろんな学校から依頼が舞い込むようになって、最初はどう接したらよいか戸惑った。自分の子どものことでPTA会長を引き受けたこともあり、社会人として教育には応分の協力をするべきだと思い、家内もそう考えていた。工場見学の子どもたちに実演をして見せ、寄木の話をすると、帰り際にうれしそうに一人ひとりが「ありがとうございました」と言葉を掛けてくれ、これでよかったのかと少し自信がついた。
 そんなある日、埼玉県内の小学校長から電話が入った。「修学旅行で箱根へ行くので、宿泊先に出張して寄木細工の話と体験学習をお願いできないか」と。よく聞くと、夕食の済んだ後の時間を利用してのことだった。こちらも一日丸々仕事をしてからの時間帯で、満足にできるかどうか不安もあり、一度はお断りしたが、あまりの熱心さについほだされてお引き受けした。当日は寄木細工の話をした後、寄木のコースター作りを体験させた。児童たちは旅の疲れも見せず熱心だった。終わって「どうだった」と感想を聞いてみたらみんな本当に楽しかったようで、代表の児童からお礼の言葉までいただいた。その学校とはそれから何年もお付き合いさせていただいた。また、他の学校からの依頼も増えてきた。
 礼状や子ども達の感想文も多く頂き、その中には質問もあったので、必ず回答を出すようにしてきた。川崎市の中原小学校の四クラスの児童を受け入れた時には、百二十余人全員から質問がきた。仕事が終わって夕食後に答えを書くのだが、同じような質問が多くあっても、一人ひとりに必ず返事を書いた。「僕は(私は)器用ではないので本間さんのようにはできない」という児童が何人もいたので「私は器用だったから寄木細工の職人になったのではない。私が就職した頃(昭和二十三年四月)は戦後の混乱期で、今のように職業を選べる時代じゃあなかった。当時は親が八百屋さんなら八百屋さん、魚屋さんなら魚屋さんに、大工さんなら大工さんの後を継いだ。私は親が寄木を作っていたから自然にこの道に入った。後は努力だよ」と答えた。
 中には手紙に名前の書いてない児童もいて、そういうのは返事を出さない。すると、「僕には(私には)返事が来なかった」という手紙が来る。その場合は「君たちは試験の時に答案用紙に名前を書き忘れることがあるのではないか。名前がなかったから出せなかったよ」と返事を出すと、今度は親からお礼の電話をいただいた。こちらの意のあるところを汲んでいただけたようだった。このうち、一クラス分は自宅で書くのが間に合わずに出張先のホテルで書いて送った。これには“おまけ”がついた。このクラス全員から礼状をもらった。それには「おじさん、今度は返事はいりません」とあったのには苦笑させられた。私の多忙ぶりがわかってくれたのだろう、人生いいこともあるなと思ったもんだ。ほかの学校でも、「全部作った時の気持ちは」という質問には「まだ全部作っていません。これからです」。「しつもん なんでつくっているのか?」と書いてくるから「どうしてか考えてください。大切なことです」と答えた。中には「わからない質問や答えるのがむずかしい質(まま)があったらぬかしていいです」というのもあった。「作ぎょういんは何人ですか」というのには「作業員でなく職人です」と答えておいた。 日のヒアリングは無事終わりほっとした。


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 © 本間 昇