ライオンズクラブの仲間達

 箱根ライオンズクラブに入会したのは、平成十三年三月のことであった。ご近所の倉橋啓、河野衛氏のお二人が勧誘に見えた。ライオンズといえば名士の方々で構成されている会で、私ごときの職人には縁の無いものと思っていたから、いったんはお断りした。しかし、再三のお誘いを受け、入会させていただいた。ライオンズは奉仕の精神ということだが、私は十九歳の時から二十年間、箱根町消防団に入団し、火事や台風の時に何回も出動したり、年末には歳末警戒に出たりした。また、四十三歳の時から、小・中・高校などのPTA役員を通算十年務めた。消防団活動では精神力の面で、PTA活動では教育界の方々と語り合ったことで触発されることが多かった。どちらも目指すところは社会奉仕の精神と思っているが、結果的に自己の人間形成に大いに役立ったと感謝している。
 さて、ライオンズに入った二年目、私にテールツイスターをやってほしいと言われた。この会はよく横文字を使う。「テールツイスターって何ですか?」と聞いてみたら直訳すると、「尻尾の竜巻」だという。また分からなくなってきた。要するに四人で組んで、年間一人が四回、一回が十五分くらい話をする、テーマは何でもいいということのようだった。何か話せといっても私には自分の仕事の寄木のことしかないので、リーダーの田端昭氏に伝えて了解を得た。
 そんな訳で十四年八月八日、第一回のテールツイスターをやることになった。テーマをどうするか、内容は何を話すか、十五分でどうまとめるかを夜、寝ながら考えた。父はよく「考え事は寝てからやれ、昼間は気が散っていけねえ」と言っていた。それは仕事のことでも、今やることを今考えていたのでは仕事が遅れる。だから考え事は前夜のうちにしておけ、ということだろうと思っていた。布団の中で時計を見ながら話すことのまとめに入ったがどうもうまくまとまらない。思いついたのが、NHKテレビの毎週楽しみに見ている「その時歴史は動いた」という番組だ。「そうだ、タイトルを『その時、寄木は動いた』にしよう」。不思議なものでタイトルが決まると考えもまとまった。
 第一回は伝統的工芸品として国の指定を受けるには、こういう決まりがあるという伝産法指定についてと、指定されている全国の工芸品について話した。十五分では足りず、ライオンテーマ(司会者のこと)の後藤忠彦さんにご迷惑をかけてしまった。第二回は十月十日で、「その時、寄木は動いた」の第二弾、箱根寄木細工が指定を受けるために業界はどう活動したかを話した。その時も十五分では終わらなかった。第三回は十五年五月八日でこの時は民放テレビの「知ってるつもり」を使わせてもらい、「知ってるつもり ヅクの厚みは〇・一ミリ???」と決めた。当日は長さ三〇センチ、幅八センチ、厚み四・〇センチの寄木の種板を用意し、大鉋を持って行った。当て台の代わりに会場のホテルの机を使い、桟をシャコ万(留め金具)で止め、それに種板を引っ掛けて削ることにした。大鉋を力を入れて引くには机の脚が弱く、ぐらついてしまう。そこで、二人の会員が机の脚を押さえてくれ、大鉋で一気に削った。見ていた人達から「アっ」という声が聞こえた。
 会員は地元箱根在住の名士の方々で、ご自分の経営する旅館、ホテルなどの施設の売店には寄木細工の製品が置いてあるのに、思った通りヅクについてはやはり「知ってるつもり」だったと少し得意になった。皆さんには寄木のしおりをプレゼントした。二枚削った。寄木の大きいヅクは会場に回して見てもらったが戻ってこなかった。それだけ関心を持ってもらえるならばそれで結構と思った。


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 © 本間 昇